目次(複数ページに分かれた記事もあります)
安土城跡の周辺の観光地について
また周辺には、「安土城考古博物館」や「安土城天主 信長の館」があります。
「安土城天主 信長の館」では、安土城の模型を見ることができますし、
歴史好きならどちらも楽しめると思います。(少なくとも私は楽しんだクチです。)
以下のマップでは、
① 安土城跡
② 安土城考古博物館
③ 安土城天主 信長の館になります。
「安土城考古博物館」や「安土城天主 信長の館」につきましては、
以下のホームページをご参照ください。
二つの共通券がお得で、通常で大人860円、高大生490円、
企画展開催中では、大人900円(高大生は同じく490円)となっています。
この辺りは周辺は田んぼが多いのですが、そのために気持ち良く風が吹き抜けます。
安土城跡を含めて、他の商業施設が多い場所ではありませんし、
刺激は少ないかもしれませんが、織田信長のことを知った上で訪れるなら、
それぞれ充分に楽しめるスポットだと思います。
安土城跡に行く前に、織田信長の歴史を簡単に振り返る
織田信長の歴史について、ここでは岐阜城を奪ってから安土城を築くまでをご紹介しますが、
織田信長の居城は、清洲城→小牧山城→岐阜城と変わっていきましたが、
岐阜城を居城にしてからは、「天下布武」という朱印を使うようになり、
この頃から天下統一への意志を表明することになります。
その後、信長は京の都に上洛し、足利義昭(よしあき)を第15代将軍に擁立し、
将軍の威光を利用しつつ、戦国の世を戦っていくことになります。
個人的な推測になりますが、将軍を擁立し守る立場にあることは、
信長の敵は将軍の敵、ということになり、
戦うための大義名分を得る(世間の人に正当性を認知してもらう)ために、
当時の将軍には実権はなかったにしても、その利用価値は大きかったものと思われます。
ただ足利義昭としては、足利幕府の再興を考え、
一方の信長は、自らの天下統一を考えていたことから、
両者の溝は次第に深まり、対立することになったと言われています。
義昭は諸大名に書状を送り、信長包囲網を形成することになりますが、
最終的に義昭は追放され、室町幕府が終焉を迎えることになります。
また信長は妹の、お市の方を浅井長政に嫁がせるという政略結婚を行い、浅井家との同盟を結んでいましたが、
信長が越前(現在の福井県あたり)の朝倉氏を攻撃した際に、
浅井長政に裏切られ窮地に立たされるも、何とか京都に逃れることに成功。
その後、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が戦うことになり、織田・徳川連合軍が勝利を収めました。(姉川の戦い)
その後も、織田と朝倉・浅井は争いを続け、
「一乗谷城の戦い」で朝倉氏が、「小谷城の戦い」で浅井氏が滅亡することになり、
その際、お市の方とその娘たちは救出され、お市の方は後に柴田勝家と結ばれることになります。
この間1571年には、比叡山の焼き討ちが行われましたが、
比叡山延暦寺が朝倉・浅井氏に味方していたことが大きな要因だったと考えられます。
また信長は神や仏を信じていなかったとも言われています。
当時の人たちは、神や仏に対する信仰は強かったと思われますが、
そのために寺院の僧侶は尊大に振舞うことが多かったのでしょうか、
お寺の僧たちは魚や鳥などの肉を食べたり、比叡山には女性も多かったと言われています。
その後は長篠の戦いでは火縄銃を使用して、武田の騎馬隊に勝利し、
毛利氏・本願寺との戦いでは、鉄甲船を使用して、本願寺への毛利水軍による補給路を断つことに成功。
本願寺とは最終的に和睦を結び、その本願寺のあった場所は現在の大阪城として知られていますが、
当時は本願寺(大阪城)の周りの多くが、海に囲まれた天然の要害であったため、信長はこの地を高く評価していたと伝えられています。
また1579年には、琵琶湖岸に安土城を築城。
ルイス・フロイスの史料には豪華な贅をつくした城と記録されていますが、
信長が中国地方の遠征のために、本能寺に滞在していた1582年に、
明智光秀に謀反を起こされてしまい、織田信長は本能寺の変で亡くなることになります。
謀反を起こした張本人が、明智光秀だと分かると、
「是非に及ばず」(仕方がない)と言ったことは有名でもあります。
裏切りが当たり前の、戦国の世を駆け抜けた信長にとって、
こうしたことがあっても不思議ではないことは覚悟をしていたのかもしれませんし、
起こったことに対しては、後はそれにどう対処するか、
謀反を起こされた状況では、そのことに集中するしかなかったかもしれませんし、
いかに死ぬか、
そんなことを考えたのかもしれません。
その後、山崎の戦いで豊臣秀吉と明智光秀が戦った後、
信長の築いた安土城は焼失したと伝えられ、現在では石垣が残っているだけになります。
終わりに
織田信長は、若い頃には清洲城を、その後には岐阜城を拠点としていました。
それぞれの城について、簡単な歴史をまじえて書いた記事はこちらになります。
安土城跡は現在では石垣だけになっていますが、石垣の大きさも注目ポイントで、
現在のお城のような天主という構造は、安土城から一般的になったと言われています。
高層建築がなかった昔の人にとっては、天主という構造のお城は何か象徴的な意味合いを感じたかもしれません。
また私の場合には「炎の人 信長」という小説を読みましたが、あれは何度も涙する名作だと思います。
その他にも信長の小説などがありますが、そうした小説などから信長を知って、
その上で安土城跡に訪れていただくと、様々なことを感じることができると思いますので、
歴史を知った上で安土城跡を訪れていただければ、知らない時に比べれば100倍は楽しめると思います。