清洲城へのアクセスと楽しむための予備知識・織田信長の歴史

織田信長の居城に清洲城があります。

こうしたお城を訪れるなら、歴史を知っているかそうでないかで、

楽しみ方、または楽しめる度合いも変わってくると思いますので、

ここでは名古屋城から清洲城へのアクセスと共に、

清洲城を居城にしていた若い頃の信長の歴史を振り返りたいと思います。

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目次(複数ページに分かれた記事もあります)

清洲城へのアクセス


(出典「photoAC」)

清洲城の場所は、以下のマップでは、

① 清洲城
② JR 清洲駅
③ 名鉄 新清洲駅
④ JR 名古屋駅になります。

・JRでは名古屋駅~清洲駅は、

料金は200円、乗車時間はおよそ7分になります。

・名古屋鉄道では名古屋駅~新清洲駅は、

料金は240円、乗車時間はおよそ10分になります。

また清洲駅、新清洲駅から清洲城までは、徒歩でおよそ15分ほどになります。

お車の場合には清須公園駐車場は、

ご利用料金は無料で、9時~午後5時の営業、

普通車113台の駐車スペースがあります。

詳しい駐車場の場所については、以下のページをご参照ください。

清須市観光協会ホームページ 清洲城

また清洲城の入場料金は、

大人300円、小人(小中学生)150円、

休館日は月曜日(月曜日が祝日の場合には、翌日が休日)と年末(12月29~31日)になります。

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清洲城と織田信長の若かりし頃

織田信長は、尾張(おわり)の戦国武将、織田信秀の嫡男(ちゃくなん)として生まれ、

若い頃には奇妙な行動が多く、「うつけ」(バカ者)と呼ばれていました。

礼儀作法にもあまり関心がなかったようで、

父親の葬儀の時には、位牌に灰を投げつけたと言われています。

見方によっては、確かにうつけ。

ただ常識に縛られない考えの持ち主とも言えますし、

うつけと呼ばれながらも、それを改めることなく貫けたのは、

気持ちの面で豪胆さがなければ難しかったことでしょう。

ただそうした面が当時の重臣に快く思われていないこともあり、

弟の信行(のぶゆき)を支持する重臣が現れ、信長派と信行派で家督争いが起こることになります。

その対立は信長が天下統一まであと一歩だったことからも分かりますが、

信長が弟信行を殺害することで決着がついたと伝えられています。

戦国武将の家督相続では、親子や兄弟でも対立して争うことがありますが、

現代の私たちにはなかなか想像できない気持ちだろうと思います。

また隣国、美濃の斎藤道三の娘、濃姫(のうひめ)と結婚し、

斎藤道三は信長と直接対面した時、

うつけと呼ばれていた信長の器を見抜いたとも伝えられていますが、

斎藤道三は子の義龍(よしたつ)との争いに敗れ、戦死することになります。

その後、今川義元が信長のいる尾張へ侵攻したことで、

1560年に、あの有名な「桶狭間の戦い」が起こることになります。

諸説ありますが、今川軍は2万5千とも言われる軍勢の中、

対する織田軍は2千とも3千とも言われ、

大きな戦力差がある中で戦闘が開始され、尾張は侵攻を受けますが、

雨が降っている中で、織田軍は今川義元のいる本陣を急襲し、

総大将の今川義元を打ち取り、侵攻をまぬがれることになります。

その結果を知っている私たちは、その結果ありきで「桶狭間の戦い」を捉えがちですが、

実際に桶狭間で戦った信長と信長軍の心境は、緊迫感に満ちたものだったに違いありません。

その桶狭間の戦いに出陣する前、

織田信長は敦盛(あつもり)という舞を舞ったと伝えられています。

「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。

 一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか。」

人の一生は、夢か幻のように短いものだ、

この世に一度生を受けて、死なない者などいるわけがない。

信長はこの舞を好んでいたと言われていますが、

桶狭間の戦いの前に、決死の覚悟をかためたことがうかがわれます。

その桶狭間の戦いの時の居城が、清洲城だったとされています。

また1562年に、織田信長と徳川家康が結んだ「清洲同盟」という同盟が、

この清洲城で結ばれたと言われています。

徳川家康は、幼少の頃には織田家、今川家の人質となっていましたが、

織田家の人質になっていた時に、織田信長と出会っていたと言われています。

その後1563年には、織田信長は小牧山城に拠点を移し、

清洲城は信長の拠点ではなくなりましたが、

信長が1582年に本能寺の変で亡くなると、

信長亡き後の織田家の後継者と領地の再配分が決められた

「清洲会議」がこの清洲城で行われました。

秀吉が推すのは、信長の長男信忠(本能寺の変で自害)の息子で幼い三法師(さんぽうし)、

一方の柴田勝家は、信長の三男、神戸信孝を推していましたが、

秀吉の推した三法師が、織田家の後継者に決まり、

その後、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が深まることになります。

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終わりに

織田信長は、その後岐阜城へ居城を移すことになり、

最後に安土城を建築することになります。

岐阜城や安土城跡について、簡単な歴史やアクセスについて書いた記事はこちらになります。

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歴史の話を知った上で清洲城に訪れていただくと、

清洲城で様々なことを想い、感じることができると思いますので、

ここでは簡単に信長の若い頃の歴史を振り返りました。

清洲城を訪れてみると分かりますが、

周りに山などがないために、ここを守ることは難しかったような気がします。

それでも信長が天下統一にかなり近づいたことは驚きに値しますが、

逆に言えばそれだけ危機感を常に持ち続けられたことは、

桶狭間の戦いに勝利するなど、その後の信長の快進撃を支えた礎(いしずえ)なのかもしれません。

ちなみに私の場合には、ここを訪れる前に、

「炎の人 信長」という小説を読んでいました。

個人的には何度も泣くことができるほどの名作だと思います。

他にも信長の小説があると思いますが、そうした小説を読んで清洲城を訪れて、

当時の信長に、想いをはせていただければと思います。

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